昭和五十七年 七月二十三日 朝の御理解
御理解 第八十八節 昔から親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。
八十八節の御理解はいよいよ八十八節でいよいよ繁盛に繁盛、広がりに広がるおかげの頂けるみ教えです、これを本当にわからしてもらう、いわゆる黙って治めるという事がいわれるが、このみ教えの中から頂いたみ教えですが結局、最近、私が申しております一切神愛論という事、一切が御神愛という事がわからんと、いわゆる八十八広がりに広がるという事にはなりませんのです、わかっただけではない、ならそれを実感として、それが感じられなければ広がらないんです。
昨日、一昨日から昨日いかけて、ある偉い先生方がここへ合楽の信心を、見にこられたというか、そんな感じでしたが、帰りに大きな公の用件で見えたんですけれども、個人一人一人がおかげを頂きましたという事を、しきりに御礼をいうて昨日、帰られましたが中でもいわゆるこの一切神愛論という事がこういう事だという事に、もうちょっとした驚きを感じられたようでしたが、本当に合楽教会が今、本部の方で偉い先生方は合楽の在り方でなからにやいかんというておられるそうですね、私は昨日はじめて、、、、今度の教報が来ておりましたが、教報でもいわゆる今日の布教という事について、合楽のもの出ました、和賀心時代を創るというそれが布教の研究に選ばれたという事が昨日の教報にのっていました。
というように合楽の信心が認められる、なら認められるちゃ、どこを認められるかというと昨日私が、一切神愛論の中にです、とにかく本部でもこっちの九州地区の教務所あたりから大変ないろんな批判やら悪口やらがいくから本部としてもどうにも、今のところ仕方がないといったような感じですけれども、というて話しをいろいろ合楽の悪口を具体的にはおっしゃらないけども、おっしゃった時に私がはあ、まあだ合楽は大きくなりますなあちいうたら、そいはどういう意味ですかというて、そいでまあ教祖様はひとりでに物が出来るようなおかげを頂くためには、とにかく信心は地を肥やせと仰せられる。
地を肥やすという事はどういう事だと思いますかと、私共がいう難儀とか困ったとか悪口、総てが地を肥やす肥料ですよちいうたら、これが神愛論ですなというてから、ま、いうなら驚かれて二人ともやはり東大出の先生方ばっかりでしたそうですが、なかなか教学的にもですけども各自各自の教会でもやつぱ御比礼を頂いておられる先生らしですけども、何というですか、合楽の信心を無条件に頂くというか頂かなければ今後の教団の上にもというような感じを私も受けた、またみんなも研修の時に先生方がみんな一緒に研修しましたから、聞きましたら、やっぱそういうふうだったらしいですね。
ですから皆さん本当に一切神愛論がわかったという事はね、悪口ならその悪口にいいわけどんするようなこっちやおかげにならんですばい、それが肥料とおもわな、ならひとりでに物が出来るようなおかげを頂くためには地を肥やせとおっしやる、心を肥やす、難儀と、おもとる苦しいとおもとる、それはもう素晴らしい肥料なんです、ですから有難く頂くそれはね、いわゆる神愛とわかるから有難く頂くという事だけではなくて、いよいよ広がりに広がる八十八節のおかげを頂く事のために、人に悪い顔したらおかげにならんですね、悪口がそこに聞こえてきたなら、ああこれはまあだいよいよ広がるな、いよいよひとりでにものができる働きが起こっておるなというすっきりした心が開けてこなければ、一切神愛がわかったという事にはなりませんのです。
お互い持っておるその難儀、いよいよその難儀を持って、いうなら難儀を難儀としたら肥料にならんです、それが神愛と受けるから心がいよいよ肥えてくる豊になってくる、ひとりでにものが出来るようなおかげにもなる、いわゆる今日の御理解である八十八節のおかげが約束されるのです。いやだなとか、困ったなとか、難儀なことだなという、困ったとか難儀な事だといっとる間は肥料にならんですね、その全てが神愛とわかったら、それをね、これはまだいよいよ合楽が大きくなるなというふうに実感出来れるという事です、いやその事に御礼がいえれるという事です。
いうなら悪口をいう人達に、本当に合楽に肥料をどんどんかけて下さって有難うございますという気持ちなんです、どうでも私は一切神愛論がいわゆるわかっただけぢゃなくて、自分たちの生活の上にもはっきりとそれが感じられる、一切神愛を感じられる信心に進んでいく為の修行であり稽古でなからにやならんと思うですね。
どうぞ